コダックのレチナ。
このカメラはレチナ・ シリーズのほぼ最終型の「IIIC」型です。
レチナ、ドイツ語では「レ・ティーナ」みたいな発音。真ん中の「ティ・ti」にアクセントがある。
2012年にはアップルが同じ「retina」という名称のディスプレイを発売しました。英語では「ラタナ」みたいな発音です。アタマの「ラ」にアクセントがある。
さてさて。
レチナの誕生やら使い方やらウンチクやらはいろんな媒体にたくさん紹介されています。
要は、アメリカのイーストマン・コダック社が、欧州大陸に進出する企業戦略の中で、イギリスやらフランスやらに橋頭堡を築いていき、当然ドイツにも拠点が欲しい。
そこで目をつけたドイツの優秀な技術に投資する。逆から見ると、第一次欧州大戦の敗戦と世界恐慌で息も絶え絶えだったけれども骨太のドイツの技術者がアメリカの資本を利用してとても小型で廉価だが素晴らしいカメラを自分のやり方で開発して大成功を収めるというアメリカン・ジャーマンドリームですな。
まあ、今で申せば「ウインウィン」ですよ。
だけどね、大西洋を挟んでアメリカとドイツ、しかも1930年代のことだ。そうスイスイと行ったわけではないと思うよ。
1928年、46歳のナーゲル博士がツァイス・イコンから独立した翌年の1929年が世界大恐慌、ドイツではヒトラーが台頭してきているし、アメリカでも株の大暴落で街には失業者が溢れているころ。
米国イーストマン・コダックは1931年に博士の会社を買収してドイツコダック社が生まれる。
イーストマン・コダックの創業者のジョージ・イーストマンは、ナーゲル博士の会社の買収の6年前、1925年、70歳のころには経営の一線を退いていた。とはいえ、企業戦略には関与を続けていたというから、買収自体については了解していたんだろうな。ただし、ジョージ・イーストマンは、脊椎管狭窄症という難病に侵されていて痛みに苦しみ車椅子の晩年生活だったらしい。
そして彼はドイツコダック創立の翌年の1932年、生涯独身を貫いて、77歳のときにピストル自殺を遂げる。
辛かったんんだろう......
「私のやるべき仕事は終わりました。もう(死を)待たなくてもいいでしょう」
と書き残して、自分で頭を撃ち抜いたという。
1933年にはドイツで国民の圧倒的な人気を背景にヒトラーが組閣、翌1934年初代のレチナが誕生したのは、ヒンデンブルグが死んで、独裁者が誕生したその年です。
レチナは大ヒットして、コダックのフィルムは売れ続けた。ヒトラーと国家社会主義者どもは着々と戦争の準備を始め、同類の嘘つきスターリンと見せかけの握手をしたりしながら戦車と急降下爆撃機を沢山作り続け、とうとう1939年9月にポーランド侵攻。
周りの予想を裏切って、ドイツ軍はあっという間にワルシャワを陥とす。
一方、米国は1933年に民主党のフランクリン・ルーズベルトが大統領に就任。大恐慌でどん底のアメリカ経済を、社会主義的なニューディール政策を断行してなんとか活性化を図りつつも、欧州ではドイツ、極東では日本の動きに目が離せないというややこしい時期ですよ。
満州事変は1931年(昭和6年)。翌1932年(昭和7年)が第一次上海事変。1936年には2.26事件だ。
つまり、世界中がキナ臭いころにナーゲルの初代レチナが発売され、売られていた。
さて、レチナ誕生から5-6年後、ポーランド侵攻の1939年に話を戻すと、ヒトラーを甘く見て譲歩を重ねていたイギリスやフランスは、ポーランドがやられちゃったのにびっくりしてすぐに対独宣戦布告。
ところが、アメリカは伝統的にモンロー主義です。強い対外不干渉主義を貫いている。民主党のルーズベルト大統領は軍需による景気回復に望みをかけ、チャーチルに恩を売ってドイツをやっつけちゃいたいんだけど....
「なして大西洋さをドンブラコと渡って、ドイツと戦争しなきゃなんねえだ? こないだもやったっぺ? またかよ? 意味わがんねだ?」
アメリカ国内世論と共和党がそれを許さない。
米国民主党政府は心情としては反ヒトラーではあるが開戦までには踏み切れないのです。
当然アメリカ・ドイツの国家間のコミュニケーションは悪くなり、1939年のポーランド侵攻以来、米国コダックはドイツコダック社と連絡が取れなくなったみたいですね。
ドイツコダックからの財務報告が来ていないのですよ、ごめんなさいと株主に報告している財務諸表が残っている。
欧州では戦争が本格化するにつれ、とうとうシュツットガルトのドイツコダック工場のカメラ生産は停止する。軍需光学製品製造に切り替わったんだろう。
それに先立って1936年には米国コダック本社も、その一部工場では手榴弾の製造を始めるなど、挙国一致の臨戦態勢である。
ついに1940年にヒトラーは本格的に牙をむく。
今度はベネルックス三国からフランスを占領。イギリス軍は命からがらダンケルクから追い落とされるという、ドイツ軍の電撃的破竹の勢いですよ。
ナチとみせかけの独ソ不可侵条約を結んだソビエト・ロシア、それと、息も絶え絶えなチャーチルのイギリス、だいたいこの二カ国くらいを除いて、ヨーロッパの文明社会はほぼぼぼヒトラーと国家社会主義者のものになった。
極東の大日本帝国では、バスに乗り遅れるな、ヒトラーさんに続けよ続け、とばかりに頭に血が上った連中が盛り上がっちゃって、時勢も読めず、いや、読みすぎちゃって1940年に日独伊三国同盟を締結。
挙げ句の果てに1941年12月、三菱の風立ちぬゼロ戦の大群で真珠湾を奇襲する。
「ジャパン? それどごだ? 箸で飯食う東洋人か? なんと、ドイツ人パイロットさに飛行機操縦させていきなりハワイをだまし討ちか! そら許せねった!」
真珠湾の不意打ちで、米国市民・オール・アメリカン・ボーイズのヤル気に火がついちゃった。もう野党共和党も戦争をすすめたい大統領に反対できない。欧州で対独、太平洋では対日宣戦布告。ルーズベルトは嬉々として、いや、堂々と戦争を始めてしまう。
「ここより永遠に」、ってわけだ。
ナーゲル博士が61歳で没するのが1943年のこと。前年にはロンメルもエルアラメインで負けていたし、スターリングラードでもドイツは敗退、博士は滅んでいくドイツ、そして、カメラを作らなくなった自分の工場をどう見ていたか。
ナチには協力的だったのか、反ナチだったのか......
ノルマンディーにアイゼンハワーが15万人の若者を連れて上陸するのが博士の死の翌年1944年6月の荒天のこと。
遡って、太平洋では連合艦隊が絶対勝つはずのミッドウェーで、情報が漏れてたって、何したって絶対的な連合艦隊の優勢を誇りながらまさかの大敗戦を喫したのが1942年。
それに続いて、当時は日米どちらの参謀の誰もその名も知らぬ遠きガタルカナル島で、双方血みどろの殴り合いの死闘を繰り広げた結果とうとう日本は島を失う。
この辺から枢軸国側はだんだんと戦況が怪しくなっていきますな。ドイツコダック工場があったシュツットガルトは、他のドイツの美しい都市と同様に、連合軍による空襲で徹底的に破壊された。
日本の主要都市はB-29が落とす焼夷弾で火の海にされ、8月の原爆、それも二発...
もう嫌になる。
連合軍の地上部隊がシュツットガルトに展開したのは、ヒトラーの崩壊に先立つ1945年の4月のこと。
ヒトラーが死んでドイツが降伏すると、シュツットガルトは西側で米軍軍政下に置かれ、コダックの工場も米軍管理となる。
同1945年11月にはドイツコダックの工場ではカメラの生産が開始されたというから、そりゃたいしたものです。レチナ I 型の#010とか、レチナ II 型 の#011とか戦前のレチナと同型のカメラを部品をそこらからかき集めて作った。
米国コダック本社がしっかり乗り出してドイツ工場の統制を行い始める1948年まで、米軍が関与してレチナを含むカメラの生産を続けたそうです。
だからこの間に生産されたカメラは欧州のPX(米軍購買部)で軍関係者にのみ販売されていたらしい。大儲けしたこすいGIもいたんだろう。
ようやく#013(戦前の#148)の再生産がちゃんと開始されたのは1949年からのこと。
その後レチナシリーズは色々と進化をとげ、目測式からレンジファインダー式、1960年代半ばに一眼レフまで発売される。
ベルリンの壁が墨俣よろしくあっという間に出来上がるのが1961年。その崩壊が1989年。コダックの倒産が2012年、同社の年金機構による「コダック・アラリス」としての再生・再上場(NY)が2013年。
ドイツ・コダックAGの戦後はナーゲル博士のご子息が経営したとも。その後どうなったんだろうね。米国本社の直接管轄になったのか。
ドラマはあるが、戦争はいかん...
距離計と露出計とがついている。
距離計も露出計もないフォクトレンダーのヴィトー II 型(下)と比べてみました。レチナのがタッパがあるけど、サイズはそんなに変わらない。重いけどね。
ヴィトーのレンズはちょうどいいサイズの f3.5、このレチナのレンズは大きな f2.0 だから...
嬉しくでかい Eカップ、ちゅうか... ヽ(´▽`)/ウルセーヨ!
...この記事は別ブログの2017年4月17日の記事に大幅な変更を加えたものです。また、風景などの写真は、このレチナIIICで撮ったもので、フィルムはフジの業務用100を使いました。
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